ヘルメットと同性とのお付き合いと
あれが解決したら違う問題がでてきて…ぐるぐる悩みがつきないあんりです。
だから少しいつもと違うトピックを。
最近自転車に乗るときヘルメットをつけている子供をよく見ます。
小学生、中学生でも。
良い時代になったなとしみじみと感じます。
約十年前、私が小学生のとき、自転車に乗る際ヘルメットをつけている子供はほぼ居ませんでした。
私は自転車好きな親からヘルメットをつけるように言われていたのですが、いかんせん周りに着けている子がいないので、目立つ。
そしてそれがとても恥ずかしく、友達と出かけるときはもちろんヘルメットつけないし、一人で乗っているときも、友達に見られるのが心配で友達の家の前を通るときはヘルメットを脱いで、通り過ぎたらまたつけて、走行中もヘルメット姿を見られたくない一心で知り合いがいないか目を光らせては脱いで、とせわしなく動いていました。
とにかく、私がヘルメットをかぶっていることは恥ずかしいことで、知られたくなかったわけです。
だって普通じゃないから。皆かぶってないから。クラスで、学年で、おそらく学校を見渡しても、ヘルメットをかぶっているのは私くらいでした。
それでもヘルメットを着けているところは友達やクラスメイトに見られるわけで、
「なんでヘルメットつけてるの?(笑)」 みたいなことを聞かれて、
「安全が~」とかいうと
「まじめー笑笑」みたいな反応をされて、そのたびに私は言い表せない恥ずかしいようなもどかしいような思いをしていました。
自転車漫画とか読んでヘルメットの重要性はわかっていたのですが、それでも 日本人特有の(?) みんなと違う、変、バカにされる…みたいなことに耐え切れず。
親に、「転んで怪我してもよいなら脱いだら?」と言われ、転んで怪我するより日々のヘルメット姿を見られたくない羞恥心から解放される方を選び、私は脱ヘルメットしました。
そして、自転車に乗りながら誰かに見られるんじゃないかとびくびく怯えることから解放されました。
おそらく、ヘルメット自体が嫌というより、ヘルメットをかぶっている自分が異端なことに耐えられなかったんですね。
それから十年、街に出ると小中学生の多くがヘルメットをしており、学校のルールなどで決められたものなのかもしれませんが、ヘルメットをかぶるということが当たり前のこととして根付き始めたのだなと感じます。
多分今私が小学生で、ヘルメットをかぶっていても
「なんでヘルメットかぶっているの?笑」みたいなことはあまり言われないのだと思います。
かぶることがあたりまえになりつつあるから。その規範が浸透しているから。
やっと時代が私に追い付いてきたなと思ったり。笑
十年でこんなに変わるんだとしみじみ思いました。
一つのことが「あたりまえ」として根付くのに十年、時間がかかりすぎているのかもしれないですが、私は短く感じました。
この変化を見るたびに、私は自分が今置かれている、小学生のとき感じたようなもどかしさ、すなわち私が同性と付き合っていることを考えてしまいます。
私は友人にはオープンに彼女のことを話していますが、誰にでも言えるわけではないですし、元カレがいたときに彼氏のことを人に話したときと、彼女のことを人に話すときとでは大きく異なります。
拒絶されないかな?とか、偏見持っていたらどうしよう?とか言いふらされたりしないかな?とか 躊躇してしまいますし、初めて彼女のことを話すときはカミングアウトになるので緊張します。
私にとってまだ少し、私が同性と付き合っているということはヘルメットをかぶっていることと同じように知られたくないことなのだと思います。
恥じることではないと知りつつも。ヘルメットをかぶることは変なことじゃないと知っていたように。
そして、なんで知られたくないと思うかというのももちろん単純ではないですが、当たり前じゃないから、という部分は大きいと思います。
私の周りで同性と付き合っている人(海外の友人を除く)はほぼいません。
だから、この十年のヘルメットの変化を目にするたびに、次の十年ではまた新しい規範ができているのかな?当たり前になって、堂々とヘルメットをかぶれるように、堂々と彼女のことを周りに話せるのかな?という期待感を抱きます。
今考えると、ヘルメットをかぶる私が堂々としていたらみんな何も言わず、もしかしたたヘルメットに興味を持つ人もいたかもしれないなと思います。
だから、周りの圧力に負けた十年前の反省を活かし、堂々と好きな人のことを愛し、そんな自分を愛し、十年後に「やっと時代に私が追い付いてきた」と言えるようにしたいです。
多分私がヘルメット変化を感じた2008-2018の間に、先人の方の努力で同性愛に対する規範もだいぶ変わって、私はそこに今から参加する形なのだと思います。